句会の合間に、皆様に是非読んで欲しい寄稿がありますので、貼らせていただきます。

私も、ウィスキーのグラスを傾けながら、じっくりと読み返してみたいと思います。



-宴(句会)のあとに思う-  
 
一般的にとらえられている俳句のイメージはたとえば、「俳句」→「芭蕉」→「わび・さび」ということだろうか。俳句とはなんだろう。
「俳句とはこうだ」と言い切るチカラはぼくにはないが、考えたことを体系的、論理的に辻褄合わせることを考えず、つれずれ書いてみた。。



これは俳句の一面であろう。また「俳句」→「諧謔(かいぎゃく。こっけいみのある気のきいた言葉。しゃれや冗談。ユーモア)」というイメージを強くもっている方もいるであろう。これも別の一面。

ぼく自身は、既成の定義とルールを踏まえた上で、抽象的になるが
「『生きとし生けるもの』へのあいさつ」ではないだろうかと、考える。

つまり、生命(自然)、他者へのあいさつである。ここでいうあいさつとは、相手に対して敬意や謝意などを表すこともその一つである。

そこに、詠む人の修練と感性とで、時代性とか個性とかの花が咲くのであろう。そこから「わび・さび」とか諧謔など古くからつたえられてきた要素などをさぐることができる。

そう考えていると、想像力ということでは、日本という風土では、どうも強烈な個性は育ちにくいのではないだろうか。

とはいえ、絵でいうと、ピカソ、ゴッホ、ムンクのような人間の根源的な悲しみというものを表現されようもないところが、俳句に向いているのであろう。

光琳のような、装飾的、様式美をみていると、ダイナミズムにかけるが、浄土にいるように、行ったことはないが、浄められるようである。

俳句は自分を映す鏡でもあると思う。
投句した句には、おのずと、実体験や精神的な「心の体験」から得た多くのものが反映されているはずである。

そして、俳句とは、その体験を昇華させる文学といえる。
ここでいう昇華とは、説明は難儀だが、より純粋な、より高度な状態に高められることといえばよいだろうか、苦しいことも悲しいことも浄化され昇華される。
昇華されていなければ個人の愚痴なってしまうのではないだろうか。

先の句会の四点句の
はたち猫秋の日背負い家路着く   青鳩

この句では、突飛な言葉はいっさい使っていない。
説明しなくても誰にでも伝わる言葉で詠まれている。秋の日を背に受けてゆったりと歩く老いた猫。ただそれだけのことだが、誰もが自分を見つめることになる。「生命へのあいさつ」である。

ぼく自身は、余白には大きく深遠な世界が隠されているように思える。その隠されたチカラが、ある種のエネルギーとなって、心の宇宙へとつながっているのではないだろうか。

とりとめがなく失礼。
ぼくが今考えているのは、日常的な言葉を使って、ピカソやゴッホのような心に響く句を、自由律ではなくあくまで定型で作ってみたいと考えている。

                                   K氏のブログより引用





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